01|入口の向こう
小さな穴の奥に、
金色の品々があった。
1922年11月、エジプトの「王家の谷」で、ハワード・カーターが率いる発掘チームが墓の入口を見つけました。発掘とは、土などに埋もれた昔のものを、壊さないように掘り出して調べることです。
墓の主は、約3300年前の王、ツタンカーメン。入口には、ふさがれた扉がありました。カーターが中をのぞくと、金色の家具や箱などが見えてきます。亡くなった人とともに墓へ納めるものを、副葬品といいます。
それらを一つずつ記録し、守りながら取り出す作業は、長く続きました。ところが、この大発見には、別の物語が重なります。
02|死とうわさ
本当に起きた死が、
「呪い」の話につながった。
発掘の費用を出していたカーナヴォン卿は、翌年の4月に亡くなりました。「卿」は、イギリスの貴族などに付ける呼び方です。死因は感染症と肺炎とされます。これは、病原体による病気や、肺に炎症が起きる病気のことです。
墓を開けたあとに、関係者が亡くなった。それは事実です。でも、そこから「王の呪いが命を奪った」と考えるには、もう一つ、原因を示す証拠が必要です。
発見から、うわさへ
- 墓が見つかる
カーターの発掘チームが入口を見つけ、中をのぞく。
- さらに奥の部屋を開く
王を納めた棺のある部屋へ調査が進む。
- カーナヴォン卿が亡くなる
死と墓が結びつけられ、うわさが広がる。
呪われたミイラという物語は、墓の発見より前から小説にありました。発見後の新聞報道で、その話はさらに広まります。古い墓と突然の死は、人の気になる組み合わせだったのです。
03|名簿を見直す
亡くなった人だけでなく、
生きた人も数える。
カーター自身は、発見後も生き、1939年に亡くなりました。墓を調べた人が、みんなすぐに亡くなったわけではありません。
一人の死だけで、全員の運命は分からない
では、ほかの関係者はどうだったのでしょう。2002年の研究は、カーターの記録などを使い、墓の開封などに立ち会った人と、そうでない人のその後を比べました。立ち会ったことが、早い死につながったといえる結果は得られませんでした。
ただし、対象は記録をたどりやすい欧米の人たちに限られ、人数も少なめです。全員の健康を完全に調べたわけではありません。「呪いを裏づける結果はなかった」と「何もかも証明できた」は、分けて読みます。
04|残る問い
墓の中より、
うわさの育ち方を見てみよう。
どうなった?
日記や名簿をもとに、長く生きた人も含めて見る。
だから呪われた?
目立つ出来事だけをつなぐと、原因まで分かったように見える。
確認できるのは、墓が見つかり、関係者が亡くなり、その死が呪いの話と結びついたこと。病気などでは説明できない、ふしぎな力が死を引き起こしたという証拠は、確認されていません。
一方で、どの話がいつ加わり、どう広まったのかは、一つの名簿だけでは分かりません。日記と当時の新聞を比べると、まだ追える手がかりがあります。
こわいうわさを聞いたら、目立つ出来事のほかに、何が起きていたかも見てみる。カーターが残した記録は、墓の中の宝物だけでなく、うわさを確かめる手がかりにもなるのです。
REFERENCE DESK
参考資料・関連リンク
保存済みの調査資料をもとに、発掘記録・博物館解説・比較研究を区別して確認しています。最終確認:2026年10月4日。
入口・書架画像:発掘記録の封じられた入口と金色の副葬品を手がかりにしたAI生成の再現画像です。部屋の配置、家具の細部、光や穴の大きさは想像を含み、正確な復元ではありません。本文の時系列・比較図は資料をもとに作成。発掘写真・日記・新聞の転載はしていません。
