ONLINE ARCHIVE第 一 書 庫
池の向こうに、木々に覆われた箸墓古墳が広がる現在の実写真
現在の箸墓はしはか古墳。写真:Saigen Jiro(2019年・CC0)
記録番号JPN–ARC–002
歴史の謎FILE 002

日本の空白の150年

空白の150年に、
何が変わった?

女王・卑弥呼ひみこの時代から、次の王たちの時代へ。その間の歴史は、文字だけでは詳しく追えません。でも、大きな墓や土器には、人々が生きた手がかりが残っています。

▰ カテゴリ歴史の謎◎ 地域日本列島・東アジア◆ キーワード空白の150年 / 古墳 / 考古学 / 倭の五王▥ こわさこわさなし

本文の記録係・発掘・船・使節・研究の場面は、AI生成によるイメージです。特定の人物や現場の姿を確定した復元ではありません。

01|記録の少ない150年

女王の話のあと、
歴史はどう続いた?

約1800年前の日本列島には、小さな国がいくつもありました。中国では、列島の人々や国々を倭わと呼んでいました。3世紀の女王・卑弥呼ひみこが中国へ使者を送った話も、中国の歴史書に残っています。

海の向こうから来た使者と、中国の記録係を想像した場面
使者は、国の代表として話を伝えに行く人です。絵の人物や室内、書かれた文字は想像です。

ところが、その後の倭の様子を中国の記録だけで詳しく追うのは難しくなります。266年の使者の記録から、413年に使者が来たという記録まで、約150年の間があるためです。

この時期を「空白の150年」と呼ぶことがあります。日本で何も起きなかった、あらゆる記録が消えた、という意味ではありません。文字だけでは、人々をまとめる仕組みがどう変わったのかを続けてたどりにくいのです。

もし社会が止まっていたのなら、大きな墓や新しい道具は生まれないはずです。文字の外にも、手がかりを探してみましょう。

02|残っている大きな墓

大きな墓は、
人々のつながりを伝える

最初の写真に写っているのは、奈良県の箸墓はしはか古墳です。古墳は、土を盛って造った昔の墓。箸墓は全長約280メートルもあり、3世紀の中頃から後半に造られたと考えられています。

上から見ると、丸い部分と四角い部分がつながった形をしています。この形の墓を前方後円墳ぜんぽうこうえんふんといいます。やがて、似た形の墓が列島の広い範囲に造られるようになりました。

多くの土を運び、大きな墓を造るには、人手や食べ物、道具を集める力が必要です。似た墓の形が広がったことも、各地の有力者たちのつながりを考える手がかりになります。

記録の間にも、社会は動いていた

  1. 266年文字の記録|倭の使者が中国へ
  2. 3世紀中頃〜後半墓の手がかり|箸墓のような大型の墓
  3. 4世紀〜5世紀物の手がかり|各地の古墳や、海の向こうとの交流
  4. 413年文字の記録|倭の使者が再び中国の記録に

年代を重ねて見るための一覧です。同じ王や一つの血筋が続いたことを示す図ではありません。

奈良を中心に、各地の有力者とつながった王の勢力を「ヤマト王権」と呼びます。ただ、墓が似ているだけで、一人の王が列島全体を一度に支配したとは言えません。どのように力を広げたのかは、研究が続いています。

墓の大きさや形から、社会の変化は見えてきます。では、小さな土器のかけらからは、何が分かるのでしょうか。

03|土の中から分かること

小さなかけらにも、
時代と場所の手がかり

昔の建物の跡や、土器、道具などから人々の暮らしを調べる学問が、考古学こうこがくです。見つかった物だけでなく、どの土の層から、何と一緒に出てきたかも記録します。

調査員が土を少しずつ掘り、見つかった物や位置を記録する想像イラスト
掘る前の位置や、土の重なりも大切な情報です。絵は調査のイメージで、箸墓の発掘写真ではありません。

土器は、土を焼いて作った器です。形や作り方は、時代や地域によって違います。それらを比べると、いつごろ作られ、どこから運ばれたのかを考えられます。

箸墓の近くにある纒向まきむく遺跡では、関東から九州まで、遠い地域の特徴をもつ土器が見つかっています。物が集まったことは、離れた地域の人々の行き来を考える手がかりです。

ただし、土器だけで、運んだ人の名前や旅の目的までは決められません。違う資料と組み合わせて、分かる範囲を広げます。さらに海の向こうへ目を向けると、品物だけではない交流が見えてきます。

04|海を渡った人と技術

器だけでなく、
作り方も海を渡った

日本列島の西には、朝鮮半島があります。海をはさんだ人々の交流によって、列島へ新しい道具や技術が伝わりました。

土器や金属の道具を積んだ船で人々が交流する想像イラスト
海上交流を想像した場面です。船の形や積み荷を、特定の航海の記録から復元した絵ではありません。

その一つが、須恵器すえきという硬い灰色の土器です。5世紀ごろには、朝鮮半島から来た人々の技術を使い、列島でも作られるようになりました。

須恵器は、土を形にするだけでは作れません。窯という焼くための設備を造り、火を扱い、高い温度で焼く知識が要ります。大阪の陶邑すえむらには、その窯の跡がたくさん残っています。

馬を育てたり、乗ったりする技術も、5世紀に伝わりました。古墳から見つかる馬具は、馬を使う暮らしや力の示し方を知る手がかりです。

つまり、この時代には、品物だけでなく、技術を知る人々も海を渡っていたのです。その交流の先で、中国の記録には再び王の名前が現れます。

05|王の名前と、残る問い

名前は残った。
墓の主とつながる?

5世紀、中国の『宋書そうじょ』などに、讃さん・珍ちん・済せい・興こう・武ぶという5人の倭の王が記されます。この王たちを「倭の五王わのごおう」と呼びます。五人で同時に治めたという意味ではありません。

倭から来た使節が中国の宮廷で贈り物を渡す想像イラスト
王に代わって国の話を伝える使節のイメージです。王本人や、特定の一回の訪問を描いたものではありません。

王たちは中国へ使者を送り、称号を求めました。称号は、王としての立場などを示す名前です。海の向こうの国との関係も、自分の力を認めてもらうために大切だったと考えられます。

しかし、五王が後の記録に出るどの天皇なのか、どの古墳に葬られたのかは、すべて決まっていません。卑弥呼の国から五王の国まで、同じ血筋が続いたとも、まだ確かめられていません。

分かったことと、残る問い

歴史の動きは、文字の外にも残る

大きな墓が造られ、遠い地域の品物が集まり、新しい技術が海を渡りました。記録の少ない約150年も、人々が生き、社会が変わった時代だったのです。

まだ難しいのは、その変化を、記録にある王の名前や国の移り変わりと結びつけることです。

研究する人と子どもたちが、土器や道具、記録を見比べる想像イラスト
墓や品物、文字の記録を照らし合わせて、過去を考えます。机の資料や背景は想像で、実際の調査成果を示す写真ではありません。

新しい墓や道具の発見を聞いたら、「いつのもの?」「何が分かった?」と確かめてみてください。小さなかけらが、文字だけでは見えなかった時代を教えてくれるかもしれません。

REFERENCE DESK

参考資料・関連リンク

公的機関・博物館の解説と、桜井市の調査資料で根拠を確認しました。確認日:2026年10月12日。

画像クレジット
入口の箸墓古墳写真:Saigen Jiro / Wikimedia Commons(2019年撮影・CC0 1.0、WebPへ形式変換)。本文の記録係、発掘、船上交流、使節、研究の5場面は既存のAI生成イメージです。